或る日、僕は

「ほぅ…お客さんか、珍しいな。ここはダンジョンだ。わたしはここでコーヒー飲んでるから、ゆっくり見て行ってくれ。幸運を祈る。」Since 2014.

たまには文章だけで書いてみることにした

2015-04-19 10:41

 さて、休日。時間はたっぷりある。たまには、日ごろの憂さを晴らすためにキーを打ちまくってみたい。
 ただし、最低限のデリカシーには配慮した文章となる予定。今から書き始めます。
 準備はいいか、私。

2015-04-19 10:42

 最近の近況を書いてみる。
 昨秋、体調を崩し、職場に出られなくなっていた私は、その間ブログを書いていた。
 当然ながら、体調が悪いときに書いた文章が悲観的なものとなっていることを、あとから読み返してみて顔から火が出る思いだ。

 冬場は堪えたが、春になり、気候も良くなって来たので、なんとか職場に復帰できている状況まで回復した。勤務日数は昨秋前までと比べて減っているが、冬場から少しずつ体調と相談しながら私の職場復帰に向けた職場の仲間の温かい支援もあり、徐々に元の勤務に戻れそうな自信がつき始めているこの頃。よく持ちこたえてくれたものだと、感謝の気持ちでいっぱいです。

 職場の同僚が一名亡くなられた。この場を借りて、改めて偲ぶことにさせていただきます。
 前に向かうしかないのか。現実の残酷さを感じるこの頃。
 なぜ、生きる勇気を与えてくれなかったのか。それは、ひととしての永遠の課題だと、考える。

 無言。今があるのは、昔があるから。明日に希望を持つことができるかどうか。
 ひとは、弱い。心打ちひしがれたときに、助けてくれる人は、居るのだろうか?
 その答えを、私は知っている。

 心打ちひしがれたときに、助けてくれる人は「居る」。
 ほんの少し、勇気を出して、身近な人に、声をかけてみる。
 人間、「孤独感には耐えられないものなのである」と、本にあった。
 仲間を作るために必要なことは、どんな理論でも証明できない。
 マニュアルなんてない。少なくとも私の知る限りでは。

 なぜ、ひとはつるみたがるのか。それは、不思議なことに、ひとりでいると心細く感じるからだろう。たぶん。
 どんなに知識を得ても、どんな経験を積んでも、わかりえない事柄がある。
 わからない、と、いう状態を少しでも変えたいから、ひとはつるむのではなかろうか。

 心には、ひとそれぞれの耐性があり、ひとりひとりキャパシティの大きさが違う。
 どんなにタフな人でも、毎日のように罵声を浴びて、しかも孤独だと感じていると、心は打ち砕かれるものなのである。

 そんなときはどうするか。
 専門医にかかろう。心の病を診てくれるお医者さんが、居るのである。しかも、身近に。
 さらに、現時点で、社会参加、退院促進、地域活動、居場所作り、生活支援などを、「福祉」という分野で受け持っている方たちが、身近にいるのである。
 心の病とは、ひとの生きる道の中で、避けて通ることはなかなか難しい病気であり、障がいである。
 私自身、闘病生活に入って、もうそろそろ10年くらいになるが、幸いなことに命をつないで暮らせている。
 途中には長い道のりがあった。

 現在、私は、私自身の暮らしぶりについて満足しており、これからもこの暮らしが続いていけばいいなぁと思っている。
 ちなみに、無年金生活である。この件については、かつて、ずいぶん親を恨んだものだが、現在は、「年金がないのがかえって良かったのではないか?」と、少し捉えかたが変化した。

 同僚からもらった手紙にある一節を紹介する。
「病気にならなければ出会えなかった、ひと、場所、仲間、居場所…たくさんありますよね」
 私は、病にかかる前よりも、幸せな生活を送っていることに気づいたのであった。

 そう、私から言える結論。
「心の病は、完治する」
 これは、机上の空論ではない。

2015-04-19 11:23 プリンとF 記

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