或る日、僕は

或る日、僕はコーヒーを飲んでいるかもしれない。Since 2014.

まったくわからないが

 わたしには、あえて厳しい環境へ身を置く傾向がある。

 おかげで苦労が絶えない。

 ところで、若いころに、わたしはある画策をした。

 いまのところまだこの画策は実を結んでいないが、いつか結実してくれるとよいだろうと思っている。

 非常に気の長い話だ。

 そして、いまはまだできていないが、そのうちしようと思っていたことをずっと先延ばしにしている。

 これまた怠惰に徹するように心掛けていた若かりし頃の習慣というか、怠惰にしたかったのだが周りがそれを許さなかったというか、わたしが、わたしの気の赴くままになんだかんだ愚痴をこぼしながらも努めてきた事柄の数々のおかげで、いまのところまだわたしの画策は実っていない。

 のんきに暮らしているように思われる向きもあるだろう。

 ところが、時代の流れによって、わたしのようにのんきに暮らしているように見える暮らしぶりが、さほど珍しい出来事ではなくなってきた。

 つまり、時代の流れがわたしに追いついてしまったというか、追い越してしまったというか、もはやのんきに暮らしている暮らしぶりに見えるのも、大した感慨を受けることもなく、まるで長い年月をかけて丸みを帯びてきたわたしの心向きが、あたかも当たり前のようにそこにあったかのような出来事になってしまったのだった。

 たまに遊びたい日もある。

 いまは、若かりし日々の努力の結実を素直に喜びたい。

 どうして、もっと怠惰にできなかったのだろうかと、悔やむときもある。

 なぜなら、わたしにとっての遊びとは、無目的に遊ぶことではなかったからであった。

 いま、ようやく、無目的に遊ぶということを覚え始めたばかりである。

 たとえば、このブログを書いていることも、まったく目的をもって自信をもって書いていなかった。

 いや、かつてはなにかしら目的意識もあったのだろうし、自信をもって書いた時もあったのだろう。

 だが、いまとなっては、わたしがブログを書くということは、それは無目的な遊びとなっているので、このブログを書くという習慣は、いまのところなぜかまったくわからないのではあるけど、たぶんもうしばらくの間続いていくんじゃないかなって思っている。

 文章をつづるってことは、たぶん誰かに読んでもらいたいのかといえば、そうでもないし、読みたいひとがいるかどうか全くわからない状態で書いているので、この文章を読んで何かわかったり、何もわからなかったりするのは当たり前のことである。

 というわけで。

 こんなオチで良いのだろうかと、少し心配になってきたが、まあ、これでかき揚げとしたい。

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