或る日、僕は

「ほぅ…お客さんか、珍しいな。ここはダンジョンだ。わたしはここでコーヒー飲んでるから、ゆっくり見て行ってくれ。幸運を祈る。」Since 2014.

コンピュータを笑わせたい

 ただだらだらとなにか書いてみようと思った。だらだらと書くのはあまり好きではないんだけど。
 自分を掘って行っても特になにか金鉱にぶち当たるわけでもなく、掘っても掘っても何もないのは知っているつもりだ。
 だから、ひとまずは、だらだらとなにか書いてみることで、この鬱屈とした感覚を振り払いたいと思う。

 そこでだ。わざわざ難しい話をする必要はないのと、易しい話を難しく話す必要もない。

 知識量が増えることをありがたがる方は未だいらっしゃる。たぶん。
 たいていの場合は、頭が良いとされることをありがたがる方も未だいらっしゃる。
 しかしだ。知識量が増えると頭が良くなるというのはイコールなのか? これは、断固否定したい。
 まあ、頭が良いという定義を論じ始めるという無謀な話を一記事で書き綴るには、わたしの力量不足もまた否めない。

 だらだらと書き進める。

 たとえば、わたしがわたしであるということを証明する方法を考えてみる。
 わたしはいま、お手洗いで用を足してきたところだ。そして、こうやってブログを書いている。
 このどちらもの動作を為しているのも、わたしという主体である。
 そこで、わたしが何を見ているのか、わたしが何をしているのかを、わたし自身が意識して客観視している主体がわたしである。

 ところで、技術的になにかしら新しいことを考えたいと思うときがたまにある。
 新しいことを考えたくなる場合は、様々な手法で知識を得るというアプローチがある。
 多様な文献をあたってみたり、またあるひとは計算式を導いて問題に取り組むかもしれない。
 技術的に新しいとされるものは、既存の知識を用いて生まれることもありうるかもしれないが、そうとも限らない。
 コンピュータが現実化されてから、およそ100年ほど経過した。
 この間、新しいとされる技術を学ぶことに費やしている時間と、その成果を天秤にかけた場合では、現状では成果が勝る。

 コンピュータ史をあたるまでもなく、現代社会を生きるに際して、コンピュータと共存することや、すくなくともコンピュータが存在していることには特に異論はないと思われる。
 それで、現代にコンピュータというものがもはや当たり前のように存在していることは、どうにもこうにもならない。
 コンピュータがもたらしたものと、それを学ぶことに費やす時間を天秤にかけた場合、やはり、コンピュータを学びたいと思われる向きもあろう。

 話を進める。

 コンピュータがコンピュータであることを証明する方法を考えてみる。
 コンピュータは、自身がコンピュータであることを特に意識していると言えるだろうか。これはわたしには解答不能である。
 また、コンピュータは、自身が頭が良いと考えているだろうか。これもわたしには解答不能である。
 つまり、コンピュータとは、元をたどれば、人間の頭脳を模して造られたものであるからである。
 だから、ときにコンピュータを扱うことを易く思うこともあるだろうし、感情を持たせてみることも考えられた。

 様々な試みを経て、コンピュータ史は現代においても加筆されることを待っているように、わたしは思う。
 この「わたしは思う」というあたりは、たぶん、わたしなりのユーモアであり、理解できなくてよい。
 コンピュータを面白がらせることができるのであれば、笑わせてみたいが、わたしは、コンピュータが笑っているところを見たことは特にない。

 以上、だらだら書いてみた。コーヒーを飲んでみる。正気である。

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